introduction
しゅんすけさん、というあり方
しゅんすけさんの抽象画がとても好きだ。今、アート・インクルージョン・ファクトリーの壁面に描いている、かすれた筆が魅力の作品はもちろん、2015年ころから2017年ころまでに制作された一連の、水をたくさん含ませた筆で淡く描かれた一連の作品が、私はとても好きだ。見た感じがとてもいいという、いわゆる「アートっぽさ」みたいなレベルでそう思うのはもちろん、しゅんすけさんのもうひとつの題材である、顔を描いた連作との兼ね合いの中に、何かもっとずっと深いレベルの何かが見受けられるように思うからだ。
しゅんすけさんがアート・インクルージョン・ファクトリーに通うようになったのは2013年、ファクトリーが開所してまもないころのことだ。ある日、いつものようにアート・プログラムに行くと、椅子の上にありえないかっこうで(からだのやわらかさゆえに)座るしゅんすけさんがいたのをおぼえている。
しばらくの間、しゅんすけさんはおなじような顔を描きつづけていた。おなじような顔だったことからだろう、誰かが「しゅんぼう」と名づけ、それがいつしか周囲にも浸透していき、今回アート・インクルージョンのメンバーたちに行ったインタビューでも何人かが「しゅんぼう」について言及している(こちら)。
しゅんすけさんがアート・インクルージョン・ファクトリーに通うようになったのは2013年、ファクトリーが開所してまもないころのことだ。ある日、いつものようにアート・プログラムに行くと、椅子の上にありえないかっこうで(からだのやわらかさゆえに)座るしゅんすけさんがいたのをおぼえている。
しばらくの間、しゅんすけさんはおなじような顔を描きつづけていた。おなじような顔だったことからだろう、誰かが「しゅんぼう」と名づけ、それがいつしか周囲にも浸透していき、今回アート・インクルージョンのメンバーたちに行ったインタビューでも何人かが「しゅんぼう」について言及している(こちら)。
「しゅんぼう」ばかりを描いていたしゅんすけさんの画面に変化が現れたのは、アート・インクルージョンに通い始めて1年ほどがたってからのことだ。しずくのようなかたちの中に、丸いつぶのようなものがペンで描かれ、やがて絵具で同様の、細胞のような、模様のようなもの、それ以前の何を描いているのかがあまりにもわかりやすい「しゅんぼう」にとってかわって、いったい何を描いているのかまったくわからないようなものを描き始めたのだ。
実は私は「しゅんぼう」を全然いいと思っていなかった。あまりにもわかりやすすぎて、しかも「しゅんぼう」なんていうヘンテコな名前までつけられてしまって、見る方は何が描いてあるかわかりやすいし、そういう意味で扱いやすいのだろうが、とにかく何かそういうのが嫌だった。そうした中でしゅんすけさんが意味不明ともとれる行動を取り始めたのは、とても興味深く、おもしろかった。模様のようなものはやがてそのかたちすらも失って、色そのものになっていく。もう「描いている」と言っていいのかもわからない。そうした「抽象画」を「描く」一方で、しゅんすけさんは同時に「しゅんぼう」も描きつづけ、今にいたっている。
実は私は「しゅんぼう」を全然いいと思っていなかった。あまりにもわかりやすすぎて、しかも「しゅんぼう」なんていうヘンテコな名前までつけられてしまって、見る方は何が描いてあるかわかりやすいし、そういう意味で扱いやすいのだろうが、とにかく何かそういうのが嫌だった。そうした中でしゅんすけさんが意味不明ともとれる行動を取り始めたのは、とても興味深く、おもしろかった。模様のようなものはやがてそのかたちすらも失って、色そのものになっていく。もう「描いている」と言っていいのかもわからない。そうした「抽象画」を「描く」一方で、しゅんすけさんは同時に「しゅんぼう」も描きつづけ、今にいたっている。
具象画と抽象画を同時並行的に描く画家として、私の頭に真っ先に浮かぶ名前は、ドイツの画家ゲルハルト・リヒターだ。旧東ドイツに生まれたリヒターは、ベルリンの壁が築かれる直前に共産主義体制を逃れる。写真をもとにして、焦点をぼかしたようなリアルなスタイルで描かれる具象画は、描く自分の主観=イデオロギーが入ることへの懐疑から生み出されたものと言われる。スタイルとしてはまったく異なる抽象画についても、カラーチップをランダムに配列していく作品がわかりやすいが、自身の主観を排除しようとする点では、同じことをしているのだと思う。リヒターが排除しようとした主観とは、ひとは社会体制などによって容易に考え方を強制=矯正されてしまうというぬぐいされない危機感から来ているのだろうと思う。共産主義時代のイデオロギーなど、すでにはるか昔のことかもしれないが、世界を見せたい方向に見せようとする圧力は常に存在するし、それは何も「権力」とか大袈裟な姿をしているわけではない。いつも、すぐ隣にいるものだろう。そしていつでもそこに無自覚に悪気なく加担してしまう可能性をもっている。
たとえば「しゅんぼう」という、何ひとつ悪気のない無自覚な名づけもそのひとつのように私には思えるのだ。今回、お母さんへの聞き取りで、しゅんすけさんが描きつづけている顔は、家族の肖像を描くことからはじまったものだということがわかった。では、「しゅんぼう」とはいったい何なのだろう。
言葉は世界を広げるものである一方、限定してしまうものでもある。石巻で「アトリエ・コパン」を運営する新妻健悦さんは、表現作品には大きくわけてふたつの領域があると言う。ひとつは何を描いたかがわかる表現で、もうひとつはそうでない表現。新妻さんは前者を「A(領域)」、後者を「B(領域)」と名づけ、優劣があるわけではないとしながらも、上手/下手で語られがちなA領域に対し、正解が用意されていないB領域を大切にしているという。
たとえば「しゅんぼう」という、何ひとつ悪気のない無自覚な名づけもそのひとつのように私には思えるのだ。今回、お母さんへの聞き取りで、しゅんすけさんが描きつづけている顔は、家族の肖像を描くことからはじまったものだということがわかった。では、「しゅんぼう」とはいったい何なのだろう。
言葉は世界を広げるものである一方、限定してしまうものでもある。石巻で「アトリエ・コパン」を運営する新妻健悦さんは、表現作品には大きくわけてふたつの領域があると言う。ひとつは何を描いたかがわかる表現で、もうひとつはそうでない表現。新妻さんは前者を「A(領域)」、後者を「B(領域)」と名づけ、優劣があるわけではないとしながらも、上手/下手で語られがちなA領域に対し、正解が用意されていないB領域を大切にしているという。
何を描いたかがわかる表現は、見る側にとっては楽だ。だから反転して、その描かれたものを何ものかわかるものへと押し込めようとする圧力を自覚的無自覚的に行使してしまう。しかし、それが何なのかわからない地点にとどまる努力や勇気をもつべきなのではないかと思うのだ。そしてそれは、人そのものについても同様だろう。アート・インクルージョンのメンバーへのインタビューの中で、まいさんがしゅんすけさんを評して「ぬらりひょんというか、宇宙人的な(存在)」と語っているが、これは非常に的確だと思う。むろん、宇宙人だからとその人を特異な位置においやってしまうということではなく。
しゅんすけさんは自分の気持ちを言葉で語ることはほとんどない。しかし表現が、ひとに何かを伝えるということ、ひとから何かを受け取るということが、言葉によらなければならないということもない。しゅんすけさんの表現は、もっと言えば、しゅんすけさんというあり方は、自分を取り巻く人々へのレスポンスであり、鏡や共鳴であり、協働=コラボレーションなのではないかと思う。その絵を「しゅんぼう」などと名づけられ、そのように消費されていくことに対し、断固として拒否するわけでなく、かといって目をそらすわけでもなく、全く別の表現やあり方を見せながらそれと共生し、その枠をいっしょに超えようと日々努力を重ねている、そんなふうに見えてくる。それはまさにこの異質なものだらけ、理解しがたいものだらけの世界と自分とを切り結びながら、なんとかやってこうという、あまりにも誠実で真摯な姿勢ではないだろうか。(本展キュレーター:門脇篤)
しゅんすけさんは自分の気持ちを言葉で語ることはほとんどない。しかし表現が、ひとに何かを伝えるということ、ひとから何かを受け取るということが、言葉によらなければならないということもない。しゅんすけさんの表現は、もっと言えば、しゅんすけさんというあり方は、自分を取り巻く人々へのレスポンスであり、鏡や共鳴であり、協働=コラボレーションなのではないかと思う。その絵を「しゅんぼう」などと名づけられ、そのように消費されていくことに対し、断固として拒否するわけでなく、かといって目をそらすわけでもなく、全く別の表現やあり方を見せながらそれと共生し、その枠をいっしょに超えようと日々努力を重ねている、そんなふうに見えてくる。それはまさにこの異質なものだらけ、理解しがたいものだらけの世界と自分とを切り結びながら、なんとかやってこうという、あまりにも誠実で真摯な姿勢ではないだろうか。(本展キュレーター:門脇篤)
主催:一般社団法人アート・インクルージョン
助成:公益財団法人仙台市市民文化事業団「多様なメディアを活用した文化芸術創造支援事業」
(c)2021 Art Inclusion all right reserved
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